沿革・御由緒

大同元年(八〇六)菊多の国造が出雲大社より勧請奉斎し代々国造自 らが、祭祀を掌ると伝えられています。

保元二年(一一五七)に至り時の領主 国井政広、鎮国の為常陸の国より春日の 御神体を勧請、当社に合祀し領主及民人 の氏神として尊崇されました。窪田山城守平昌清の代に至り此地を窪田と称し神社を 窪田郷の郷社と崇めました。 「其の後、水戸領主佐竹氏、江戸時代に 至り、棚倉藩領主の崇敬の念厚く、社領 寄進を受け明治に至ったとされています。 なお現在の熱愛が明治十一年、 拝殿が昭和十七年崇敬者の力により再建 されたものです

御祭神

大国主命

古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔鳴尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。

須勢理姫命

古事記』では須勢理毘売命須勢理毘売須世理毘売、『先代旧事本紀』では須世理姫、また『出雲国風土記』では和加須世理比売命(わかすせりひめ)と表記されている。

誕生までの経緯は不明であるが、須佐之男命の娘であり大国主神の嫡妻。

少彦名命

『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされ、系図史料には天湯河桁命の子とされる。

境内社

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御霊神社

昭和十七年国魂神社改修にともないそ の拝殿を移し御霊社として竣成を見た。

戦後勿来地区遺族会の発足と共に、日 露戦争よりこのかた大東亜戦争までの出 征戦没した英霊一〇一五柱を祀る。 平成九年、終戦五十年を記念し勿来地区 遺族会連合会・軍人恩給連盟・傷痍軍人 勿来部会窪田地区振興会並びに國魂神社 により本殿改修工事を行った。

福稲荷神社

開運招福、商売繁盛の神社として尊崇を集める。
2月初午の日には、初午祭が執り行われる。

北野神社(学神様)

大正十三年七月二十五日、当時の勿来 町国民学校(現勿来第一小学校)が児童 の精神の浄化、学業の成就、校運の悠久 を祈り学神・菅原道真公の霊を祀る京都 北野神社より物語京したものである。 「昭和二十一年六月五日、国魂神社境内 に遷宮、後も学業の神として広く尊崇を受け現在に至る。

田神社

農中の安全と五穀の豊饒とを祈念し農 業神豊受大神を奉斎する。

遠く他町村よりの信仰も厚く旧暦二月 二十四日の鍬打祭、祈稿祭には多数の講 がおとずれ、にぎわっている。